横浜港にペリー来航
初めてのペリー来航
横浜にとって大きな転機となったのが、ペリーの来航です。
ぺリーは、アメリカから「鎖国している日本を開国させる様に」という役割を
与えられ、日本にやってきた提督です。
始めて日本に来航したのが1853年。
4隻の大きな船を率いてやってきたペリーは、日本の人々を驚愕させました。
この時、ペリーは幕府に対し「開国」を迫ったと言います。
2度目の来航
1854年、アメリカの提督ペリーは6隻の船を引きつれ、再び日本へやってきました。
この時、ペリーと会合を行った場所が「横浜村」だったのです。
どうして横浜村が選ばれたのかというと、当時人が多く集まっていた
神奈川村などの場所だと、人々が異人と交流してしまう可能性がある為、
人口が少ない横浜村が選ばれました(しかし、それでも交流をとめることはできず、
ペリーが日本を去るまでの2ヶ月間の間に、
地域住民はやってきた異人と積極的な交流をしたと記録されています)。
横浜村は、神奈川村の対岸にあったので、
このことも選ばれた理由のひとつにあったと言われています。
その後、「日米和親条約」が幕府とアメリカの間で結ばれ、その後日米修好条約が
締結され、同時に横浜村には異国と交流する為の港が設けられる様になります。
この条約により、横浜と長崎の港を開放することが決定。
これが、「自由貿易」と「横浜港」の始まりです。
当時、長崎はすでにポルトガルとやりとりをしていましたが、
それ以外で始めて異国に門を開いたのは横浜がはじめてのことになります。
当時、使い勝手が悪かった横浜の港を積極的に整備したのは、
神奈川宿・保土ヶ屋宿。
このふたつの宿は宿場として栄えていた為、経済状況もよく、
この為に港を作ることができたそう。
参考サイト:横浜港(ウィキペディア)
ここから、積極的に横浜~アメリカの貿易が始まるのです。
日本とアメリカを繋いだ横浜
この時、主に輸出されたものが「生糸」でした。
日本から海外へと輸出された商品の60パーセント以上が生糸であったことは
わかっており、この生糸の存在を糧に、横浜は大きな発展を遂げることになります。
アメリカと日本をつなぐ玄関口となった横浜には、
いちはやく海外の文化が流れ込みます。
この為、横浜は海外文化の影響を強く受け、飛躍的な成長を遂げました。
横浜港ができ、そこから横浜の町が栄えるきっかけになったのは間違いありません。
この様な歴史がある為、横浜の町には今も異国情緒があふれ、
「外人墓地」など異国の名残を見ることができるのでしょう。