第二次世界大戦後の横浜

   
21 11月 by GRbed7uk

第二次世界大戦後の横浜

横浜港

「横浜港開港」という大きな歴史の変遷を迎えた横浜ですが、
もうひとつ大きなものに「第二次世界大戦」があります。

第二次世界大戦で、東京都は大きなダメージを受けましたが、
敗戦と同時に復興へと歩みを進めることになりました。

第二次世界大戦の影響で、横浜港も大きな被害を受け、
ここから苦しい時代へと突入します。

敗戦国となった日本は、アメリカの支配を受ける様になり、
貿易を中止せざるを得なくなってしまったのです。

貿易ではなく、軍の港として使用される様になった横浜港は、
本来の役割を果たすことはできなくなるかに思われました。

しかし、1949年になると、
横浜港は再び貿易の港として役割を果たすことになります。

一部はアメリカ軍が使用しているものの、少しずつ港が日本側に返され、
「民間貿易」の役割を果たすことができる様になりました。

さらに大きな出来事が、「港湾法」です。

これは、それまでは国が管理してきた港を、市町村が管理するということを
定めたもので、横浜港の管理は横浜市がすることができる様になったのです。

横浜市民だけでなく、神奈川県民にとって、
横浜港はより身近な存在となったのです。

こうして貿易は再開され、次々と海外との貿易が締結されることとなり、
1957年には戦前の記録を超えるほどの数字を挙げることに。

こうして、横浜港は一番辛い時期を乗り越えたのです。

 

横浜港は、その後「貿易の港」としてのみでなく、
「工業地帯」としての側面を見せる様になり、そこから一気に人口の増加が加速。

現在では、大阪市を抜いて横浜市が全国第二位となっています。

 

横浜港の輸出品目について

では、一体横浜港ではどんなものが輸出され、輸入されているのでしょうか。

下記のサイトに、輸出品の変遷を見ることができます。

>>>横浜港の輸出入品目

まず、1860年に多く輸出されていたのは生糸が中心です。

輸出全体の65パーセントが生糸ですので、
かなりの割合で輸出がされていたことが解ります。

それが、昭和15年になると、34.5パーセントに減り、機械類が増える様に。

さらに、昭和35年になると、輸出品目から「生糸」が消え、
電機械類が増える様になりました。

そして、昭和45年になると、輸出品目に車が加わり、車が第一位になっています。

平成19年には、車が輸出品目第一は車がキープする様になりました。

確かに、日本において自動車は大きな輸出品目のひとつです。

 

こうして、横浜港は輸出入の要として、日本の貿易に大きな力を発揮しているのです。