第二次世界大戦後の横浜
横浜港
「横浜港開港」という大きな歴史の変遷を迎えた横浜ですが、
もうひとつ大きなものに「第二次世界大戦」があります。
第二次世界大戦で、東京都は大きなダメージを受けましたが、
敗戦と同時に復興へと歩みを進めることになりました。
第二次世界大戦の影響で、横浜港も大きな被害を受け、
ここから苦しい時代へと突入します。
敗戦国となった日本は、アメリカの支配を受ける様になり、
貿易を中止せざるを得なくなってしまったのです。
貿易ではなく、軍の港として使用される様になった横浜港は、
本来の役割を果たすことはできなくなるかに思われました。
しかし、1949年になると、
横浜港は再び貿易の港として役割を果たすことになります。
一部はアメリカ軍が使用しているものの、少しずつ港が日本側に返され、
「民間貿易」の役割を果たすことができる様になりました。
さらに大きな出来事が、「港湾法」です。
これは、それまでは国が管理してきた港を、市町村が管理するということを
定めたもので、横浜港の管理は横浜市がすることができる様になったのです。
横浜市民だけでなく、神奈川県民にとって、
横浜港はより身近な存在となったのです。
こうして貿易は再開され、次々と海外との貿易が締結されることとなり、
1957年には戦前の記録を超えるほどの数字を挙げることに。
こうして、横浜港は一番辛い時期を乗り越えたのです。
横浜港は、その後「貿易の港」としてのみでなく、
「工業地帯」としての側面を見せる様になり、そこから一気に人口の増加が加速。
現在では、大阪市を抜いて横浜市が全国第二位となっています。
横浜港の輸出品目について
では、一体横浜港ではどんなものが輸出され、輸入されているのでしょうか。
下記のサイトに、輸出品の変遷を見ることができます。
>>>横浜港の輸出入品目
まず、1860年に多く輸出されていたのは生糸が中心です。
輸出全体の65パーセントが生糸ですので、
かなりの割合で輸出がされていたことが解ります。
それが、昭和15年になると、34.5パーセントに減り、機械類が増える様に。
さらに、昭和35年になると、輸出品目から「生糸」が消え、
電機械類が増える様になりました。
そして、昭和45年になると、輸出品目に車が加わり、車が第一位になっています。
平成19年には、車が輸出品目第一は車がキープする様になりました。
確かに、日本において自動車は大きな輸出品目のひとつです。
こうして、横浜港は輸出入の要として、日本の貿易に大きな力を発揮しているのです。