21 11月 by GRbed7uk

東海道の役割

横浜の歴史

関東の大都市、横浜。

東京都に次いで関東の大都市と言われる横浜ですが、
どうしてこんなに発展を遂げたのでしょう。

ここで、横浜の歴史についてみていきたいと思います。

 

横浜は、鎌倉時代には平子氏という人物が治めていました。

その後、17世紀に入ると、「東海道」が作られ、
神奈川・保土ヶ谷・戸塚が宿場として選ばれました。

これが、横浜にとって一つ目の転機になります。

江戸時代に入り、徳川家康が日本を治めるようになると、
江戸~京都のラインが積極的に整備されるようになります。

江戸は将軍が住む城「江戸城」があり、京都は当時「天子(天皇)が住む街」として
特別な扱いを受けていましたので、このふたつの地域をしっかりと結ぶことは
必要不可欠なことだったのです。

将軍が住む街である江戸、天子が住む町である京都は、日本において政治の中枢で
あり、また特別な意味を持つ土地であり、連携を強化する必要もありました。

京都には、徳川家康が将軍宣下を受けた二条城もあり、
そのことからも歴史の上で重要な役割を果たした土地であることが解ります。

 

東海道五十三次

そこで、徳川家康が作らせたのが「東海道五十三次」という道でした。

※ちなみに、大阪までを含めて五十七次とする説もあります。

東海道五十三次は、この時代に整備された五街道のひとつで、地方から来る人が
通る道であり、また物資を運ぶ道として、重要な役割を果たしたと言います。

江戸時代に入ると、各地方と物資のやりとりをすることで地域が栄えるように
なりますので、人が楽に通ることができる東海道五十三次の存在は、
非常に貴重なものであったと言えるでしょう。

また、各地の大名が参勤交代を行うために東海道五十三次を利用した、とも言います。

 

そんな東海道五十三次には、旅人が体を休めるための宿場がありました。

その宿場が、神奈川・保土ヶ谷・戸塚です。

参考:歩く東海道53次

この3つの宿場には、多くの旅人や商人が集まり、大きく発展を遂げていきます。

特に、街道の出発点である日本橋から3つ目という近さの神奈川駅は
どんどん発展し、今の横浜市の原型になったと言われています。

現在でもこの3つの宿の面影はいくつか残っており、
当時の名残を見ることができます。

 

この東海道五十三次ができたことで、
今の横浜市周辺には人が多く集まるようになりました。

現在の横浜に繋がる面影は、この時代から作られていったと考えていいと思います。

ここから、大都市横浜の成長が始まることになります。